2014年7月30日水曜日

「知行取り」

 加賀前田家の領地は、江戸期に加賀、能登、越中にわたり、その石高は大名の中でも最大の102万5千石であった。 

 もちろん、その全てが加賀藩の取り分ではない。 税率に関して詳しく判らないので仮に5割として藩庫に50万石が入るとしよう。

 大名家には当然、家臣が多数いる訳だが、彼らは無償で主君の殿様に尽くしている訳ではない。 当たり前だが彼らには給料が支払われる。 現金と米の支給が主たるケースだが、身分の高い藩士には「知行取り」というものがあっった。 「知行地」と呼ばれる領地があてがわれ、生産地から取り分を受け取るものである。

 藩によっては、知行地での統治権がなかったり、蔵米支給に移行したりと事情が異なるが、格式としては堂々たる領主である。

 加賀藩は徴税した50万石から、それらを支払う訳だが、加賀前田家には家臣団の中でも「年寄」という最上位の家格を誇る家が八家あり「加賀八家」と呼ばれていた。

 それらの家は筆頭家老、本多氏の5万石をはじめに、いずれも万石以上の知行を得ていたのである。

 1万石クラスの譜代大名が多数いるなか、5万石といえば堂々たる大封を得ているのだが、彼らは大名にはなれないし、呼ばれる事もないのである。      (続)

明石城 (画像と本文は関係ありません)

2014年7月28日月曜日

大名と石高

 この「一石」だが、実は一人の人間が仮に一日に三合の米を食べるとすると、一年で大体「一石」になるのである。

 現在ではパン食等が増え、食を取り巻く環境が当時とは違うので簡単に言い切ることは出来ないが、当時の「一石」とは一人の人間が一年に消費する米の量ということである。

 加賀百万石ならば百万人が一年間食べる量の米を収穫できる領地を有していることになる。 逆に言うと石高以上の人口は存在し得ないという事でもあるのだ。

 更にに言うと、「一石」の米が収穫出来る水田の面積が「一反」であった。 農耕技術が進んだ現在では「一反」の水田からどの位の米が収穫できるのだろうか? ご存知の方は教えていただきたい。

 石高については、ここまでにして大名について考えてみよう。

 先に加賀百万石を例えに出した。言うまでもなく、日本一の大大名「前田家」の事だが、江戸期における大名の定義を覚えているだろうか?

 おそらく学校で習ったはずである。 おそらくというのは、私自身は覚えていないからなのだが…。

 江戸期における大名とは石高が「一万石以上の領主であり藩主である」事である。 くどい様だが疑問を持って欲しい。 藩主を強調したのは意味があるのだ。

 というのは「一万石以上の領主であるが藩主でない」人達が存在するからである。 この人達はけっして大名と呼ばれる事はない。

 では、再び加賀の前田家を例に述べていきたい。           (続)

高松城の天守台から見た堀 (画像と本文は関係ありません)


 

2014年7月27日日曜日

尺貫法

 では、藩については、どうだろう。 と言いたい所だが、藩についてを述べる前に押さえておきたい事がある。それこそ藩(大名)である要件といっていい。

 それは石高である。

 加賀百万石など違和感なく私達の耳に入ってくる「石」だが、現在では使われていない単位であるため、「一石」がどの位の量なのか分からないことと思う。

 そこで、簡単におさらいをしておこう。 

 現在、私達がよく聞く尺貫法の単位に長さでは「尺」「間」がある。 職人さんの世界では今も日常的に使われている。

 面積では「坪」「反」「町」だ。 住宅等で「坪」はよく聞くし、農家の方には「反」「町」はしっくりくる単位だろう。

 質量の単位「匁」「斤」「貫」 こちらは余り聞かないかもしれない。

 そして体積の単位「合」「升」「斗」「石」である。 ご飯を炊くときは今でも「合」だから分かると思う。 「1合」の10倍、「10合」が酒瓶でお馴染みの「1升」だ。その10倍が「1斗」、更にその10倍が「1石」だ。 つまり一升瓶、百本に相当するのが「1石」という訳だ。

 これを米の重量に換算すると、1石はおよそ150~160kgとなるので家庭の米の消費量に照らし合わせると、おおよその目処がたつのではないだろうか。    (続)

松山城 (画像と本文は関係ありません)

2014年7月26日土曜日

幕府とは

 まず、幕府である。 1603年に徳川家康が征夷大将軍に任じられるが家康自身は「今日から幕府を開く」という様な宣言はしていない。

 幕府が無かったという訳ではない。 幕府は確かにあった。 

 少し話は飛ぶがテレビの時代劇(戦国もの)などで戦に赴いた武将が前線の自陣で軍議をしているシーンを一度は見たことがあるだろう。 より具体的に描写するなら大将とおぼしき人物が床几に腰掛け配下の武将が地図を指し、「こちらから攻めるが良かろう」などと意見を交換している。 篝火が焚かれ、周囲は家紋の入った幔幕で囲まれている。

 そうなのだ幕府とは征夷大将軍の遠征時の前線司令部の事なのだ。 その前線司令部の幕府が平時には将軍の所在地としての意味合いを持つようになったという訳である。

 乱暴な言い方をすれば鎌倉、室町、江戸、いずれも征夷大将軍が居た所が幕府ということだ。

 ここで、「おやっ?」と思わなければ、知ったつもりで通り過ぎてしまうので注意していただきたい。

 幕府とは最上位の統治機関であったはずだ。 ここまでの説明では幕府とは単に将軍の居る所だというだけで政庁としての幕府はどこへ行ったんだと思った人はここまでの私の「知ったつもり」の真意を理解してくれたものとして感謝したい。

 度々、テレビの話で恐縮だが江戸ものの時代劇で時の政権をこのように呼んでいるのを観たことがないだろうか。

 そう、「公儀」、「御公儀」だ。 同じく将軍を指す「公方様」というのを聞いたことがあるはずだ。 有名なところでは「犬公方」こと五代将軍、綱吉を思い出されたことと思う。 一般的にはそのように呼ばれていたという事である。

 つまり言葉の上での幕府は存在したのだが概念的なものであり、幕府という呼称が使われ、幕府=国政機関と広く認知され出したのは実は幕末になってからなのだ。 

 幕府という呼称はいわば後付けといってしまうと身も蓋もないが、現代の私達には幕府という呼称が使えないと不自由なので便宜上、幕府で書き進めていきたい。
                                               (続)

大洲城 (画像と本文は関係ありません)


 

2014年7月25日金曜日

そもそも…

 いや、書いてはいけないとすら思うのだ。 

 ここまで私の駄文に付き合ってくれた方の中には、薄々気づかれた方もいるかもしれないが、ここで本題の諸藩について書き出してしまうと ゛知ってるつもり゛ になる恐れがあるのである。

 歴史が好きな人なら当たり前の事でも、さほど興味の無い人には、そもそもの説明をしないと本当のところが理解できないままになってしまい、結局  ゛知ってるつもり゛ で終わってしまうことになりかねないのだ。

 私は当ブログでだいそれた学術的な事を書こうとは思っていない。 私自身、そんな利口な人間でもないし、そんな難しい事柄を書けと言われても書ける能力も持ち合わせていない。

 ただ、ちょっと旅行に行った時などにその土地にまつわる話を知っていれば、なにも知らないよりは楽しめるであろうという私の実体験からくるものであり、私自身、書きながら勉強し次の旅行に役立てようと企図している次第である。

 さて、今回も話が横道にそれてしまったが、そもそもの事柄とは何だろうか?。

 先に出てきた幕藩体制であるが、そもそも、幕府とは? 藩とは? 大名とは? 更に石高とは一体、何なのだろうか。
                                               (続)

宇和島城 天守 (画像と本文は関係ありません)

2014年7月24日木曜日

知ってるつもり

 私達が行動をおこす時、必ず動機、理由が存在する。 たとえば仲の良い友人同士が大喧嘩をしたとしよう。 伝え聞いた第三者のあなたは当然、喧嘩が起きた事実より喧嘩に至る経緯、理由の方が気になるはずである。

 喧嘩が起きた事は知っていても、その原因がわからなければ仲裁のしようもないという事だ。

 先に述べた落とし穴とは、このような事なのだ。 「歴史上の事件が○○年にありました。」とは覚えている。 なまじ事件が起きた事実と呼称は覚えている為、知っている気になるのだが背景、つまりなぜ起きたのかがわかっていなければ、それは知らないという事なのである。

 もちろん学校の先生はプロである。 必ず、背景についても説明しているはずなのだが、歴史の試験ではクイズよろしく、起きた事象、呼称、年代を暗記するテクニカルな部分が求められる事が多い為、知ってるつもりのまま卒業してしまうのだ。

 随分とまわりくどい話を書き連ねてきたが、私は当ブログで一般に三百諸藩とも言われる各地に存在した藩について色々調べ、考えてみたいと思っている。

 しかし、いきなり「藩について書きます。」という訳にもいかないと思っている。  (続)

高知城 (画像と本文は関係ありません。)

2014年7月22日火曜日

習ったはずなのに

 では、幕藩体制とはどのようなものだったか授業で習ったことを思い出してもらいたい。

 簡単に説明すると幕府を最上位の統治機関としながらも各藩(大名)がある程度の自治権を有している。 徴税は米などの農作物を現物で納入させる石高制である。 各大名家を親藩、譜代、外様に分け参勤交代や改易、転封等で統制した。

 大雑把に言えばこんな感じだ。「ああ、習った」と言う人も多いだろう。 この「習った。覚えている。」というのが案外、落とし穴なのだ。

 私の実際の経験だが、生徒時代の私は出来のいい生徒ではなかったが日本史は割と好きな方だった。 だが、今振り返って授業を思い出してみると何を習ったのかほとんど覚えていないのだ。

 
 江戸期に関しての授業は改革(享保、寛政、天保)にやたら時間を割いていた印象はあるが、それ以外の記憶がほとんどなく。 しかもその改革の内容など全く覚えていない。

 内容を覚えていなくても事件名等を人に言われれば聞き覚えがあるため「習った。覚えてる。」となってしまうのだ。 これこそが落とし穴なのである。 (続)


徳島城の堀と石垣 (画像と本文は関係ありません)

2014年7月17日木曜日

意識をしなくとも

 日々の生活を送る中で私達が全く意識しない事がある。 それは単に意識しないというよりは、むしろ知らないと言った方が正しいだろう。 なぜなら、そう言う私もこれまで意識した事も考えた事もないからである。

 日本国内に住む私達はいずれかの都道府県に属する訳である。 何を今更と思われるかもしれないが、これが旧国名、例えば加賀国や薩摩国、あるいは加賀藩、薩摩藩だったらどうだろう。

 加賀や薩摩は有名どころだからまだわかるが、あまり 聞いたこともない小さな○○藩とか言われると地元の人間でも存在した事実は知っていても、その詳細については資料館の学芸員か郷土史家の手に委ねられるのではないだろうか。

 だが面白いもので歴史とは人の営みの中で積み重ねられてきたものだけに現在を生きる私達も知らないうちにその影響を受け、恩恵に預かっているのである。

 学校の歴史の授業で習った「幕藩体制」 聞いたことがない人はいないだろう。 (続)


洲本城の石垣 (画像と本文は関係ありません)