2014年8月25日月曜日

祖先達の話③

 元来、稲は南方産の植物であるが、他の穀物と比べても栽培が割と容易で、生産性が高く、気候等による収穫の増減も比較的に少ない。 日本の風土に適していたのかもしれない。

 とは言え、東北に差し掛かると、さしもの稲にも気候の影響が出てきた。 そこで時の王権は、この辺りに関所を設け、関より北を狩猟民の住む辺境の地とし、国境線の如く定めたのである。 この時から「白河以北」と呼ばれる地域の辛酸を舐めるが如き、苦闘の歴史が始まり近代まで続くこととなる。

 時を経て、関東各地では開拓が進み、各地で地生えの有力者が現れる。 土地を巡っての諍いが頻発することから、彼らは武器を手に収奪や防衛に備え、武芸に勤しむことになる。 武士の誕生である。

 武士達の中には、自らが切り開いた土地を中央の貴族や力のある寺社に寄進し、その力を背景に土地を護ろうとするものも現れる。

 自らが耕した土地にも関わらず租税として、或いは貴族や寺社に上納する武士達。

 しかし、自分が作ったものを自分のものにしたいという素朴な欲求が芽生え、武士達の代弁者たる存在を求めるに至る。 

 最初の神輿は平家であった。 だが、平家の本拠は西国であり、棟梁の清盛は農業より貿易に関心があったため関東武士達の願いを一顧だにしなかった。 一度は諦めた武士達であったが、ここで神が気まぐれを起こすのだ。

 一度は死罪に決まりかけていた源氏の嫡子が罪を減じられ、平清盛の命により伊豆に幽閉されていたのである。

 当初は、日の出の勢いの平家を怖れ、この源氏の罪人に味方するものはいなかったのだが、娘が、この貴種の嫡男と駆け落ちするにいたり、伊豆の豪族、北条氏がこの娘婿に一族の命運を託したのだ。

 男の名は源頼朝、娘は北条政子、その父は北条時政である。

 その後は史実の通り、壇ノ浦で平家は滅亡し、鎌倉に武士の政権が開かれる訳だが、勝利の要因として重要なのは頼朝が武士達の要望を熟知していた事だろう。

 関東武士達の土地に対する執念、「一所懸命」という言葉が表す様に、土地を巡って、時には親兄弟といえど争い、血を流してきた彼らの考え方を幽閉中に学び、彼らが自分を担ぎやすい様に自身の身を処したのだ。

 武士の派生、及び武士の政権というのは、土地、いや、突き詰めて言えば米が生み出したものといえよう。    (続)

関門海峡 (画像と本文は関係ありません)





2014年8月20日水曜日

祖先達の話②

 米がいつごろ、どのような経路で伝わったか断言できないが、栽培が始まったのは九州北部であったと思われる。 

 彼らは稲作を続ける上で、定住の必要性に迫られる。 住居を建て、収穫物を保管する倉を建てていった。 

 これも想像であるが、定住を始めたことにより食料、雑貨、服飾等の富を集め蓄える喜びを、初めて知ったのではないかと思うのだ。 現代には、色々なコレクターがいるが、そのルーツを遡ると弥生時代がその嚆矢ではないかと想像を広げたくなるのである。

 だが、決して良い事ばかりではない。 富が集積されているのだから、富の収奪を企てる輩が当然でてくる。

 対抗する為に集団になり集落を形成し、周囲には濠を巡らせた「環濠集落」が登場するのである。

 集落という観点では、青森の「三内丸山遺跡」等もあるので、必ずしも稲作により定住が始まった訳ではないが、濠を穿ち、逆茂木を配置した防御施設としての色合いの強い「環濠集落」はやはり米という価値の高い食糧の存在と切り離す事は出来ないと思うのである。

 彼らは更に土を掘り進め、水を引き、近畿圏に進出し強大な王権を確立するに至る。 この王室の長が稲作と共に来たのか、古くからこの地に蟠踞していた有力者かは判らないが、王室は更に土を掘り進めることを基本方針とする。

 東へ北へと農耕の民は進出し、やがて現在の福島県白河市あたりまでたどり着く。 ここで、神の恵みである稲の神威に翳りが見え始めたのだ。    (続)

宇佐神宮 (画像と本文は関係ありません)






 

2014年8月13日水曜日

祖先達の話①

 お盆だからという訳ではないが、私達の祖先に思いを馳せてみたいと思う。 祖先と言っても遥か縄文・弥生時代頃まで遡る。

 以下は私の空想である。

 私達が縄文時代と呼ぶ頃、祖先達は日本の至る所で採取生活を営んでいただろう。 

 山林に分け入り鳥獣を射止める者、木の実や果実を採取する者、或いは河川や海に漕ぎ出し魚介を捕る者。

 彼らは最小限の生活品を携え、幾つかの猟場、採取場を年単位で定期、或いは不定期に移動していた。

 ある日、祖先達は変わった集団を目にする。 「海の向こうから来た奴らだ」と即座に理解できる程に往来があったかもしれない。

 身に纏う衣類が違うくらいでは「変わった奴ら」と感じなかったとも思える。

 「奴らは何をしてるんだ?」 その集団はしきりに地面を掘り起こしている。 薄気味悪くて、その場を立ち去ったかもしれない。 又は好奇心から身振り手振りで「何をしているのか」と訊ねたとも想像できる。

 暫くすると不思議な連中は溝を掘り、川に近づき、あろう事か草木の無くなった区画に水を流し込み始めたではないか。 祖先達には何が何だか分からなかっただろう。

 泥の池と化した区画に連中は何かを撒きはじめた。 遠目に或いは間近で不思議な行為を観察する祖先達。

 時が過ぎ、緑が芽吹き、瞬く間に成長し、やがて緑から黄金色に染まった区画を見た時に祖先達は、それが何であるかは分からないが神秘的な神々しさを感じた事であろう。

 今更、いうまでもないが稲作である。

 それらを何年か繰り返し、やがて祖先達の中にも黄金色の収穫を初めて味わう者が出始める。

 祖先達は頬張った瞬間に、この穀物の虜になっただろう。  この世のものとは思えぬほど美味しかったに違いない。 ご飯だけでも美味しいが、おかずがあれば尚更のことである。 副食を選ばぬ万能の主食、米の登場である。
 

 この衝撃は並大抵のものではない。 以降の日本人の精神、思考にただならぬ影響を与え続け現在にまで続いているのだから。
 

 日本人にとって、これほど完璧な食料はない。  祖先達は、まさに神が与え賜うた食物と思ったことだろう。 事実、太陽神 天照大御神と結びつき、現代にまで様々な神事が至る所で連綿と引き継がれているのである。    (続)

高千穂峡 (画像と本文は関係ありません)

2014年8月8日金曜日

歴史用語

 江戸期には藩と呼ばれていなかった。 

 では当時、一般的になんと呼ばれいたのだろうか。 幕府は「公儀」と呼ばれていたことは先に述べた。

 藩についても簡単に説明したいところなのだが、少しややこしいのだ。 できるだけわかり易く説明したいと思う。

 まず、大名とその家臣達は「藩」に相当するものを「家」「家中(かちゅう)」と呼んでいた。 「御家の一大事」「御家騒動」等、現在でも使われているので違和感はないだろう。

 家臣が他家の者に名乗る場合「藩士」に相当するのが、加賀 前田家であれば「前田家家中 ○○○○某」または「松平加賀守家来○○○○某」(前田家は松平姓を賜っていた。)であろう。

 一方、将軍、幕臣、他大名はどうであったか。 将軍は官名である加賀守と呼んでいただろうが、将軍以外は「前田様」「加賀様(殿)」「加賀宰相様」 または、封地名に「侯」をつけ金沢侯と呼んでいた。 一般庶民は加賀様であっただろう。

 加賀前田家を例えに説明してみた。この時代は例外が多く、大名の格によっても違いがあるので単純にこのように呼ばれていたと言い切れない面もあるのだが、わかり易く「藩」=「家」で覚えておいて問題はないかもしれない。

 ここまで書いてきて、この「藩」や「幕府」といった歴史用語は実に便利なものだと改めて実感している。 と言うよりも、これらの用語を使わずに江戸時代の事柄を書く事自体が不可能といっていいだろう。

 このように万人が認知しているものに、わざわざ下手な説明を加える必要があるのかという向きもあるだろうが、忘れられた事実を一つ知っておくだけで見える風景が違ってくるものである。 歴史の妙味といってもいい。    (続)

中津城 (画像と本文は関係ありません)


 

2014年8月6日水曜日

藩の実在

 一口に藩といっても、それが指す意味合いは時として微妙に異なる。 一つは大名家そのものを指す場合。 また大名家が領有している領土を指す場合。 そして領内の行政機構を指す場合である。

 解釈としては、幕府同様に考えてもらっても良いのではないかと思っている。 つまり、大名(藩主)がいるところが藩という事である。

 今まで、繰り返し、「わかった気にならず疑問をもって欲しい。」旨の事を書き綴ってきながら、やけに簡単な解釈だなと疑問を感じた方もいるだろう。

 その疑問は鋭く、正しいのである。

 江戸期において幕府のことを一般的になんと呼んでいただろう。 そして、幕府と呼ばれ出したのは幕末になってからだという事を思い出してもらいたい。

 そうである。 実は幕府同様、藩というものは江戸期において公式には存在しないのだ。 今日、私達がなんの疑問も感じることなく使用する「藩」「藩主」「藩士」「藩領」これらは全て明治になってからのものである。

 では、藩は全く無かったのかというと江戸期には公式に存在しなかったが明治には公式に存在したのだ。 厳密には1868年(9月7日まで慶応4年 9月8日から明治元年)の4月に幕府領を府・県に、大名領を藩にしたのである。

 1871年(明治4年)7月に廃藩置県が行われるまでの3年数ヶ月にわたり公式に藩は存在していたということなのだ。    (続)

錦帯橋と岩国城 (画像と本文は関係ありません)

2014年8月5日火曜日

あずかり知らぬところ

 大名は将軍家(幕府)と主従関係を結び、封土を拝領する。 そして将軍家と直接、主従関係を結んでいるという点では大名も直参旗本も同じである事は先に述べた。

 つまり、将軍家から拝領した封土こそが公式なものである。 一方、大名からその家臣達に与えられる知行地は各大名家の判断で与えられるものであり、幕府側の視点でいうと大名家の「お家の都合」、いわば私的なものであり「公儀のあずかり知らぬところである」という見解だったのではないかと思っている。

 あくまでも領地は大名に与えたのだから、どれだけ陪臣が高禄を有していようと公的なものではない。 よって、いかに高禄の陪臣であろうと公式な立場の大名になれないというのが私の解釈である。

 個人的な解釈なので例外もあるし、事実誤認があるかもしれないが学問的な立場で書いているのではないので、ある程度はご容赦願いたい。

 ここまで、駆け足で幕府や石高について述べてきた。 藩(大名家)を考えるときに、どうしても外せない事柄を述べてきたのだが、そろそろ本題の藩の話に入っていきたい。           (続)

広島城 (画像と本文は関係ありません)

2014年8月1日金曜日

「直参」と「陪臣」

 では、なぜ彼らは大名にはなれないのだろうか。 ここまで読んだ人の中には、気づかれた人もいるだろう。

 幕府(将軍)と藩(大名)、旗本(将軍家臣団)の関係について整理してみよう。

 大名は将軍に臣従する見返りに領地を拝領し安堵されている。(心底、従っているかは別としてだが) ここで直接の主従関係が発生している。

 また、旗本といわれる一万石未満の徳川家将軍直属の家臣団がいいた。 時代劇でお馴染みの大岡越前、遠山の金さん、長谷川平蔵も旗本である。 こちらは紛れもなく将軍家と直接の主従関係をむすんでいる。

 大名も旗本も、石高・身分に違いはあっても、将軍家と直接、主従関係を結んでいる事に違いはない。 将軍家の直接の家来であることから彼らは「直参」呼ばれる。

 そして、直参の家来、つまり将軍家から見て家来の家来にあたる各大名家の家臣団は「陪臣」「またもの」「また家来」などと呼ばれたのである。

 この「直参」と「旗本」には厳然とした区別があった。 直参には千石に満たないような下級旗本でも将軍との拝謁が許されていたが、陪臣はたとえ万石以上の家老や藩主一族でも許されなかったのだ。 また他家の主君とも直接面会する事も出来なかったのである。

 理解して頂けただろうか。 簡単にいうと、直参はたとえ旗本でも加増されれば大名になれる(大岡越前は1700石の旗本の家に産まれたが後に一万石の大名となった)が陪臣はたとえ高禄でも大名にはなれないという不文律があるということなのだが、なぜ陪臣は大名になれないかの答えになっていない気がするので私なりの解釈をしてみたいと思う。 (続)

福山城の石垣 (画像と本文は関係ありません)