とは言え、東北に差し掛かると、さしもの稲にも気候の影響が出てきた。 そこで時の王権は、この辺りに関所を設け、関より北を狩猟民の住む辺境の地とし、国境線の如く定めたのである。 この時から「白河以北」と呼ばれる地域の辛酸を舐めるが如き、苦闘の歴史が始まり近代まで続くこととなる。
時を経て、関東各地では開拓が進み、各地で地生えの有力者が現れる。 土地を巡っての諍いが頻発することから、彼らは武器を手に収奪や防衛に備え、武芸に勤しむことになる。 武士の誕生である。
武士達の中には、自らが切り開いた土地を中央の貴族や力のある寺社に寄進し、その力を背景に土地を護ろうとするものも現れる。
自らが耕した土地にも関わらず租税として、或いは貴族や寺社に上納する武士達。
しかし、自分が作ったものを自分のものにしたいという素朴な欲求が芽生え、武士達の代弁者たる存在を求めるに至る。
最初の神輿は平家であった。 だが、平家の本拠は西国であり、棟梁の清盛は農業より貿易に関心があったため関東武士達の願いを一顧だにしなかった。 一度は諦めた武士達であったが、ここで神が気まぐれを起こすのだ。
一度は死罪に決まりかけていた源氏の嫡子が罪を減じられ、平清盛の命により伊豆に幽閉されていたのである。
当初は、日の出の勢いの平家を怖れ、この源氏の罪人に味方するものはいなかったのだが、娘が、この貴種の嫡男と駆け落ちするにいたり、伊豆の豪族、北条氏がこの娘婿に一族の命運を託したのだ。
男の名は源頼朝、娘は北条政子、その父は北条時政である。
その後は史実の通り、壇ノ浦で平家は滅亡し、鎌倉に武士の政権が開かれる訳だが、勝利の要因として重要なのは頼朝が武士達の要望を熟知していた事だろう。
関東武士達の土地に対する執念、「一所懸命」という言葉が表す様に、土地を巡って、時には親兄弟といえど争い、血を流してきた彼らの考え方を幽閉中に学び、彼らが自分を担ぎやすい様に自身の身を処したのだ。
武士の派生、及び武士の政権というのは、土地、いや、突き詰めて言えば米が生み出したものといえよう。 (続)
関門海峡 (画像と本文は関係ありません) |
0 件のコメント:
コメントを投稿